【1】



 かちゃり・・・・・。

ドアが開き、そして、閉じた。

 悠季は持っていたバッグを投げ出すと、そのままホテルのベッドへとうつぶせに飛び込んだ。現在はコンサートツアーの最中で、もうそろそろ最終日が見えているが、このあたりが一番疲れが溜まっている時期だった。

「・・・・・はぁ。疲れた・・・・・」

からだが疲れれば心もそれに引きずられる。からだ中が、使い古してもう捨ててしまうようなぼろぼろの綿になった気分の今は、気持ちまでナーバスに落ち込んでいく。

 ツアーの主催者は悠季のためにデラックススウィートの、居心地の良い部屋を用意してくれていたが、今の悠季にとってはどんな部屋でも構わなかった。

――眠るところさえあれば、どんなところでも――

 投げやりな気分はこのところずうっと続いている。

 ル、ル、ル、ル、ル、ル、・・・・・。

 ベッドサイドテーブルの上の内線電話が鳴った。そのまま無視していたが、電話は一向に鳴り止まない。根負けして、仕方なく受話器を取った。

「・・・・・はい。ああ、じゃなくて、ハロー?」

 ここが日本ではないことまで忘れている。いや、そろそろ里心がついた証拠かもしれなかった。

電話は日本からのものだった。

「・・・・・もしもし、悠季?」

「・・・・・ああ、チエ姉?」

 電話は一番下の姉、千恵子からだった。

「何かあった?」

「やんや、ちょっとあんたの声を聞きたかったんさ」

 そうではないのだろう。

 いつも彼が亡くなった今の季節には気持ちが落ち込んで何をしでかすか分からない弟を心配して、様子を知ろうと掛けてきたのだろう。悠季にもそれが分かっているし、今の彼にはその肉親のありがたみが良く分かる。

 ――あの当時は、肉親だからといっておせっかいが過ぎると不愉快にさえ感じていたのだが。――

 このところ落ち込んでいた気分が少しだけ上昇して心が温かくなるのを感じていた。千恵子は自分の方の近況や芙美子姉たちのことを気ままな様子で次々と話しまくり、そして悠季の方の様子をついでといった風に聞いてきた。

チエ姉にとっては、こちらが本当に知りたいことだろうに。

きっとこの電話は他の姉たちとも話し合って、一番海外への電話に慣れている彼女が言い出したのだろう。

「チエ姉、心配せんでええって、僕は元気だっけ。もうすぐコンサートツアーが終るから日本に帰るっけ。そろそろ圭の法事があるっけね」

「やんや、そうやねぇ。もうじき17回忌だったっけ?」

「うんそうだよ。彼が亡くなって15年が経ってるんだ。それで桐院家では小夜子さんが仕切って法事を行うことになってるんだ」

「あんたの方でやるんじゃないの?」

「だって今の僕は桐院家とは縁が切れてるっけ」

「何言ってるんら?あんたの方がよっぽどあん人と縁があるはずらろが!」

「でも、世間的にはそうなるっけね」

「あんたがそんなことを言うなんて!あん人とそういう仲になったのを後悔してるとか言ったら、ひっぱたくからね!それに、『有』はあんたと小夜子さんの息子らろが!桐院家と縁が切れてるなんて言っちゃだめらろが!」

「うん、まあ・・・・・そうなんだけどね」

 そう、圭がなくなってから満で15年が過ぎている。だからこその17回忌だが、その間には多くの出来事が起こり、悠季の身の上も二転三転したのだ。

 





 圭が死んでから15年間。

 悠季にとっては長いようでもあり短いようでもある年月だった。

 伊沢邸で小夜子と一晩を過ごし、その結果彼女が妊娠したと知った時の驚き。

 最初、彼女は妊娠したことを悠季に知らせず、私生児として育てるつもりだったらしい。だが、宅島氏にその事実を知らされて、悠季は小夜子に結婚を申し込んだのだった。

 責任を取るというつもりもあったが、心のどこかでこれでまだ桐院家とのつながりが残っているという安堵感があったことも事実だった。伊沢邸は桐院家から悠季に無償貸与という形をとり、そのまま住むことを許されていたが、あの家に一人で住むには想うことが多すぎた。時間が経つにつれて、思考は暗い方へと流れていくのだから。

 だから桐院家、圭が生まれ育った家とのつながりを無意識に求めた。たとえ圭自身は桐院家とのつながりを嫌っていたところがあったとしても。

そして、新たに生まれてくる命は、悠季をこの世につなぎ止めてくれる、何よりも重い碇となったのだった。

 数ヵ月後、小夜子は男の子を産んだ。名前は『有』と名づけられた。

 そうして、悠季が桐院の家に婿として入る形になり数年は穏やかに過ぎた。有という子供を間に挟み、悠季と小夜子は夫婦として和やかに過ごしていけるはずだった。

しかし、結婚するときのいきさつがいきさつであるだけに、小夜子との仲は夫婦というにはあまりにも希薄な関係しか持てなかったのだった。

 小夜子は悠季がいまだに圭を愛していることを十分に分かっていて、それでも構わないと納得した上で結婚を承諾したのだが、時がたつにつれてバイオリニストとしても大学講師としても多忙になってきて不在がちになっていく悠季に対して、女性として妻として満たされない思いが生まれ、悠季との関係がぎくしゃくしていったのを誰も責めることはできないだろう。

 小夜子自身も富士見銀行初の女性頭取として、多忙な日常を過ごしていたのだから、尚更夫婦の溝を埋めることは出来なかったのだ。

 悠季も、父親としての愛情は生まれてきた息子、『有』に対しては父親として愛情を注いできたが、演奏家としての多忙な日常は父としての十分な日々を与えることは出来なかった。まして妻という立場の小夜子にはいつまでも戸惑いが残り、妻と言うより身内としての親密感が深まり、夫婦として暮らしていくには気まずいものが増していった。

 そして、有が生まれて5年後。

 悠季と小夜子は正式に協議離婚した。これ以上夫婦として過ごすのはつらすぎて、この後は有の父と母であり、以前のように義兄と妹という関係に戻ろうということになったのだった。

 有は桐院家で育てられることになった。祖父母が有を手放すことを嫌がったこともあったが、悠季自身が演奏活動や講師としての活躍で更に多忙になっていて、子供を育てられる環境を持てなかったからだった。

 しかし、悠季が演奏活動から戻ったときには必ず有を連れて伊沢邸に入り、数日間を過ごすのが決まりとなった。

 


 有という子供は、桐院家の血を色濃く引いており、圭の子供の頃にそっくりだと誰もが言った。小夜子と圭は兄妹としてもよく似ていたのだから当然ではあったが、その大人びた様子を見せながら悠季を無条件に慕ってくれる姿は悠季の心をどこかほんのりとした懐かしさで暖めてくれた。

 子供の頃には、有をフジミに連れて行くこともあった。現在、石田さんは世話人としては第一線を退き、川島さんが世話人としてフジミのひっぱってくれている。

 悠季が有を連れて行くと、圭を知る者たちは痛みと万感の思いを見せながら有をかわいがってくれた。

フジミは圭が残した遺産で財団法人が作られ、立派な練習場として【富士見ホール】が出来ている。だが、その練習場で更にレベルアップした富士見二丁目交響楽団を率いての演奏会が、圭の指揮で行われたのは一回しかなかったのだった。 

 現在、その練習場は【桐ノ院圭記念ホール】と名前を変え、地域の発表会や催し物に使われており、またフジミの練習場としても引き続き使われている。悠季も定期的にここでバイオリンの定期演奏会を開くのが決まりとなっていたが・・・・・。

 しかし、フジミを率いるはずの指揮者がいない以上、圭が密かに夢見ていたフジミを世界的に通用する市民オーケストラにするという野望は達成されなかった。

 その後、何とかフジミを理解してくれる指揮者を見つけ、現在も細々と活動しているのが実情だった。

 有は、幼い頃にはお父さんべったりの子供だったが、大きくなるにつれて次第に悠季と会おうとはしなくなっていった。それは小学校高学年になる頃には顕著になった。既に一緒に暮らしていない血縁上の父親にしか過ぎないのだからと悠季もあきらめていたが、背が伸び、その姿が亡くなった圭にそっくりになっていくにつれて、更に疎遠になった。悠季も彼を見ているのがつらくなってきたのだ。

 小夜子は悠季に反抗期なのだから、気にしないで有と会うようにと勧めてくれたが、有が海外への留学を希望し、出発するとその接点はごくたまに来る手紙かメールくらいになり、ここ1年は会っていない。

 法事には留学先から有も帰ってくる予定であり、小夜子によると『会えばきっとびっくりする』という息子に会うのが、実は楽しみだった。

 

「とにかく、もうじきコンサートも終るっけ、そうしたら日本に帰るよ。そのときは必ず電話するっけ」

「絶対らよ」

「うん、分かってるって」

 さらに言い募ろうとしている姉をなだめすかした。

 


 

そうして数日後、予定通り悠季は全ての日程を終え、日本に帰国した。